「明日」をつくるしごととくらし

テクノロジーを取り入れた教育の普及に取り組む NPO で働いています。

電子教科書?デジタル教科書?

 原口ビジョンの公開、デジタル教科書教材協議会の設立などがあって、子どもたち一人一人が使う情報端末を教室に入れようという気運が高まっています。私も遅ればせながら徐々に現在の動向についての情報収集を始めたところです。しかし、そこで少し引っかかってしまったのが名称の問題です。例えば前述の原口ビジョンでは、「デジタル教材(電子教科書)等」となっていますし、デジタル教科書教材協議会では当然「デジタル教科書」と呼んでいます。いずれは統一されていくのだろうと思いますが、名称というのは意外に重要で、どんな名前を付けるかによって方向性が左右されることもあるのです。
 ちなみに、Googleで最近1年以内に区切ってそれぞれ検索してみると、「電子教科書」では約 2,300,000 件、「デジタル教科書」では約 2,250,000 件とほぼ拮抗しています。ところが、期間を1ヶ月以内に区切ってみると、「電子教科書」約 1,200,000 件、「デジタル教科書」約 839,000 件とやや前者が優勢になっている印象です。ただ、期間を区切らずに検索すると、「電子教科書」は約 443,000 件、「デジタル教科書」は約 1,410,000 件と3倍以上の差で後者が優勢です。この辺はどんな要因が検索結果を左右しているのかわからないのですが…いずれにしてもはっきりしているのは、それぞれの検索語によって表示されるページがまったく違うということなのです。それぞれ実際に見てみてください。
google:電子教科書
google:デジタル教科書
 名称が重要というのは、それぞれの語から連想されるイメージによって評価が分かれてしまうことがあるからです。例えば「デジタル」という語ですが、まずもって「アナログ」と対比されるものであり、分析的・定量的・冷淡というイメージがつきまといます。そこで、「デジタル」なものを使ったコミュニケーションは堅くてやせ細ったものであるかのような誤解が生まれる原因となってしまうのです。手書きなど「アナログ」なものを使ったコミュニケーションは温かく豊かなもので、PCなど「デジタル」なものを使ったコミュニケーションは冷たく貧しいものであるかのような…まだ読んでいませんが、「緊急提言! デジタル教育は日本を滅ぼす」という本などは今わかる書評で判断する限りその最たるものでしょう。しかし、著者のネームバリューとこのタイトルから受けるインパクトからして、ある程度世論を方向付けてしまうかもしれません。実態をよく理解している人からすると、「もしもアナログという言葉が、人と人のコミュニケーションを象徴するというのなら、『手段はデジタル、ココロはアナログ』というのが実感だ。」 http://sugaya.otaden.jp/e123028.html という表現になるはずなのですが。
 「教科書」という語もいろいろなイメージを喚起させます。堅い・スタンダード・検定…しかし、今話題になっている電子教科書とかデジタル教科書というものが想定しているのは、決まり切った内容を記述したコンテンツが静的に納められているものではなく、外部のネットワークと連携しながら最新のデータに接することができる動的なものです。これを教科書とか教材という従来のイメージで共通に認識されるものと同列においていいのかどうか。私は、はっきり別のものとして考えるようにしなくてはならないのではないかと思います。
 広く普及した携帯電話は、機能が拡張されてきた結果、電話よりも情報端末としての機能の方に重きを置かれるようになり、「ケータイ」とカタカナ表記されるようになりました。電子教科書とかデジタル教科書と呼ばれるものも、従来のイメージを乗り越えるために、例えば「キョーザイ」なんてカタカナ表記してみてはどうでしょう。いや、「ギョーザ」みたいでイヤですが。