漢字一文字で意味がかなり変わってしまう言葉があります。例えば「最後」と「最期」。「先週を最期に彼に会っていない。」なんて書くと、「えっ!」ということになってしまいます。単なる変換ミスなのでしょうが、同音異義語が多い日本語では気を付けなくてはならないところです。
学びの文脈でいえば、「探求」と「探究」という語があります。私は「探究」と書くことにこだわっていて「探求」ではないだろうと考えています。今日はそのことについて書いてみたいと思います。
国語辞典の記述は次のようになっています。
あるものを得ようとしてさがし求めること。さがし出して手に入れようとすること。
物事の意義・本質などをさぐって見きわめようとすること。
次に漢和辞典で「求」と「究」について調べました。(一部抜粋)
求
- かわごろも 2. もとめる [熟語] 求心・求職
究
- きわまる 2.きわめる [熟語] 究極・究明
このように見てくると、「探求」は目当てとするものがすでにあり、それを探していくことを指し示す語と考えられます。一方、「探究」は未解明の本質を見きわめていくことを指し示す語であるといえます。これからの時代に必要な学びが、既存の正解を探し求めるよりも、状況や集団に応じた最適解を探り究めていくことのためにあるのならば、「探求」よりも「探究」を使う方が適切なのではないでしょうか。
中央教育審議会の答申や学習指導要領では、「探究」の方が使われているのも、こういったことと関係があるのではないでしょうか。教育に関わる方々には、言葉を大切にしていただきたい。些末なことと思われる方もおられるかもしれません。しかし、こういったところにこだわることが、まさに「探究」なのだと私は考えています。そして「神は細部に宿る」のだと思います。
↓ 今回使った新しい漢和辞典 以前買ったのは30年以上前。